2011年10月26日水曜日

「失語症の国のオペラ指揮者」

私がこの秀逸な書籍と出会ったのは、実はちょっとした運命の悪戯のおかげに他ならない。

ある日、音楽書のコーナーを散策していた私がタイトルが気になってこの本を手に取ってみたのは、日頃からドイツ語やイタリア語がまともにできない指揮者たちが、ろくでもない演出でオペラを指揮していることに批判的だった私と、同じ様な意見の人が他にもいるからに違いないと思ったからだ。

私の期待は見事に裏切られた。邦題「失語の国のオペラ指揮者」というタイトルのおかげで音楽書、それも指揮者のコーナーに分類されていたこの本の原題は"Defending the cave women and other tales of evolutionary neurology" つまり「原始人の女性を弁護する」というもので、直接音楽と関係する部分は第7章の、脳卒中の後重度の失語に見舞われたオペラ指揮者の話だけである。

にもかかわらず、脳神経科医である著者が、様々な脳の障害から解き明かす人間の進化の物語は実に興味深いだけでなく、私の人生と行動に直接的に様々な影響を与えることとなった。

まずは、何かを学ぶ為の「機会の窓」という考え方である。幼い子供が数年のうちに、何も教えなくてもごく自然に語学を習得してしまうのは良く知られた事実だが、これは母国語に限ったことではない。あるいは国籍の違う両親の元で育ち、あるいは外国で育った子供たちは、同様に日常晒されている言語を何のことはなく習得する。

私の友人でミュンヘンフィルのヴァイオリニストをしている中国人の女性がいる。彼女のご主人はフィンランド人で、二人はミュンヘンに暮らしている。彼らは日常はドイツ語で生活しているが、家庭では英語で会話する。問題はその娘である。

中国語とフィンランド語がいずれも世界でもっとも難しい言語に属することは、今さら説明するまでもないだろうが、彼らの娘は4歳のとき、すでに父親とはフィンランド語、母親とは中国語(北京語)、両親が一緒の時は英語、そして幼稚園ではドイツ語で会話していた。そして、それらが混ざり合うことはなかった。彼女が4歳のとき、パパやママと一言二言話したとき、いつもドイツ語で私に通訳してくれた。

ベニーは国籍はアメリカだが父親はオーストリア人、生まれてから7歳まで日本で育った。私は子供の頃のベニーを覚えているが、小学2年生までのベニーは同世代の日本の子供と何ら違いなく日本語で読み書きし、兄のフィリップとも日本語で遊んでいた。オーストリアに戻って2年程して変化が現れた。当時12歳だったフィリップは読み書きは忘れてしまったが、日本語での会話は普通にできる。まあ、そんなに気の利いたことを言う訳ではないが、所謂「外人アクセント」ではない。ところがベニーは日本語での会話能力を完全に失ってしまった。何が彼らに起こったのか?

外国語の早期教育が必要かどうか、この国ではいまだに議論されているが、この本の情報が真実なら結果はすでに出ている。遅くとも11歳までに習得されなければ、外国語を母国語と同じレベルで習得することは、著しく困難だし、少なくとも12歳までその言葉を使い続ける機会が続かなければ、会話能力を保持することは難しい。

このことは音楽の学習においても顕著だ。ピアノやヴァイオリンの様な基本的な音感を問われる楽器は11歳以下ではじめなければ「母国語を話すのと同じ様な流暢なレベル」には決して達しない。

私が初めてドイツ語を学ぼうとしたのは12歳。そろそろ機会の窓が閉じて、限界の迫っていた頃だ。半年あまりの後、中学1年生の私の担任の教師は「英語の学習に混乱を生じる」という理由でドイツ語の学習をやめる様に、私の両親に強硬に申し入れる。あのとき続けていたら、散文や詩の細やかなニュアンス、新聞や雑誌の反復を避けたり専門用語を使った特定な言い回しをもっと自然に、もっとはっきりと理解できる様になっていたのではないかと悔やまれる。

にもかかわらず、この半年間に覚えたドイツ語への入り口が、その後21歳の時に再びドイツ語をはじめたとき、どれほど役に立ったことか!

ところで、少なくとも日本では12歳以上で初めて楽器を触った子供たちの多くが、様々な管楽器を驚異的なレベルで習得するのはなぜなのか?
新たな疑問が湧き起こってくる。

著者がすでに亡くなっているのが残念だが、オリヴァー・サックスなど他の脳神経学者の作品も読んでみたくなるし「レナードの朝」も見てみたくなった。

翻訳も秀逸で、翻訳者が医学や生物学に精通していることが伺える。

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