2011年10月30日日曜日

ジョルジュ・プレートル指揮のウィーンフィル

今日の演奏会は午前11時からだったが、今日から冬時間なので昨日までなら12時、途中で腹が減らない様に軽く昼食を済ませてからMusikvereinに出掛ける。

今日はちょっと奮発して指揮者のよく見える舞台上の席を取った。この舞台左側のオーケストラのすぐ後ろの席。

昨年の2月以来のプレートルの指揮、しかもウィーンフィルとの演奏会を生で聴くのは初めてなので、期待が高まる。









座席から見るとこんな景色。

今日のプログラムはシューベルトの交響曲ロ短調「未完成」とブルックナーの交響曲第7番だったが、いずれも過去に経験したことのない様な演奏で、大変に感動した。
私は晩年のムラヴィンスキー、ヨッフム、チェリビダッケ、カルロス・クライバーといった人たちの演奏や、数多くの練習を生で聴いたが、プレートルを凌ぐほどの感動を体験したことはない。

敢えて言うならミラン・ホルヴァートのブルックナー第6番は正統派の堂々とした演奏だったが、今日のプレートルの演奏は両方とも非常にテンポの起伏の大きい、若々しい演奏だった。

例によってプレートルは曲想やテンポの変わり目、ダイナミックやアーティキュレーションしか振らない。縦の線を合わせることよりも、作品全体の骨格を作り上げることにすべてのエネルギーが注ぎ込まれる。その上、緩急の激しく、アッチェレランドなども並外れた勢いがあるので所々でオーケストラが激しく揺すぶられ、ずれるところもあった。

「未完成」も導入部と主題ではまったくテンポが違う。導入部に一つ振りで入った時には、プログラムを知っているのに一瞬別の曲に聞こえたほどだ。冒頭の主題に沿って刻んでいく第1,第2ヴァイオリンの音型はピアニッシモで先弓で弾いているのに、しっかりとした八分音符で、先日のエッシェンバッハの演奏でトレモロだかなんだかわからなかったのとは大違いだ。ともかく「未完成」ってこんなにものすごい、面白い曲なんだ!って改めて感心させられる演奏だった。

ブルックナーではオーケストラがあまりに激しく揺すぶられ、縦の線が崩壊するところも何度かあった。

例えば第1楽章の提示部の副主題末尾、副主題が長大なドミナントのオルゲルプンクトの上で下降形で現れるあたりから小結尾に入るところ、同じく再現部の終わりでコーダに入るところなどがかなりずれていた。第1楽章のコーダは実は半小節(2分音符1つ分)ずれて終わった。フィナーレのコーダも入った途端にあまりに急速なアッチェレランドについて行けないメンバーがいる。

しかし、そんな事はまったく気にならない、ものすごくスケールの大きな名演。
(私はフルトヴェングラーのオケの下手さは我慢ならないのだけど)。
そして、非常に柔軟でありながら説得力に満ち、和声や曲想に沿った自然なテンポ設定だ。

アダージョでは再現部の6連符が続く部分、非常にテンポの起伏が大きく、ついて行くのが大変そうだったが、ものすごい集中力でコーダに入っていった。

スケルツォは聴いたことのない様な快速。しかもアウフタクトは1小節分一つで、これも非常に緊張感がある。フレーズごとに、和音ごとに大きくテンポが揺れる。例のSus4が出てくる所などデモーニッシュな緊張感があった。あれだけテンポがゆれているのにスケルツォのダ・カーポなどでもテンポはきっちりと整合性がある。

フィナーレは難しいところが多いが、プログラムすべてを完璧に暗譜で通す。

ブルックナーはハース版を使ったが、第2楽章のみ打楽器はノヴァーク版のパート譜を使っていた。弦楽器の譜面台にノヴァーク版のパート譜が配られていたのは出版社への配慮か?あれだけでも貸し譜料がかかるんだろうなあ。

ウィーンフィルのワーグナーチューバはベルの細いクルスペタイプで、ホルンとはまったく違う荒々しい音がする。フィナーレのコーダではこの曲の演奏でいつもトランペットにかき消されるホルンの第1楽章の第1主題が初めてしっかりと聞こえた。弦楽器が全弓で力一杯弾くトレモロもウィーンフィルならではだ。

2011年10月26日水曜日

今シーズン初めてのウィーンフィル演奏会

指揮はChristoph Eschenbach、バリトンのMatthias Goerneのソロで、前半はマーラーの「子供の不思議な角笛」から、ほぼ全曲と後半がベートーヴェンの8番。

「角笛」の歌詞は対話になっているところが多いのだけれどもGoerneは完全なバスバリトンで、声色の使い分けができない。

女性の台詞から始まる"Verlorne müh'!など、はじめの"Büble, wir wollen außre gehe!”と言うのがあのバスバリトンの太い声で始まると、意味不明になる。まるでジェームズ・レヴァインが小学生の男の子をナンパしているみたいだ。

"Irdisches Leben”もものすごい低音で
"Mutter, ach Mutter! es hungert mich, Gib mir Brot, sonst sterbe ich."って「ガルガンチュア物語」が始まったのかと思う。

Goerne氏のプロフィールを見ると「Fischer Dieskauに師事」って書いてある。
同じバリトンでもFischer Dieskauは、例えば「魔王」なら4人分の声色を使い分けた
(語り部、子供、父親、魔王)。

そんな訳で「角笛」はできるならハイバリトンとソプラノの2人でやって欲しい。

あまり好きな指揮者(というかピアニスト)ではないし後半はもしだらだらしたテンポだったら途中で出ていこうと思っていたけど、そうでもなかったし8番は短いので最後まで聴く。アシュケナージやバレンボイムもそうだがピアニスト出身の指揮者の悪い癖として「直接打法」が非常に多い。アクセントでもアインザッツでもいきなりその拍を叩く。そうすると遅れるから先に行こうとして速くなっていく、結果同じ音型が繰り返される様な場所ではどんどん音型が詰まっていく。これは「不均等拍」じゃなくて単に小節の最後を喰ってしまっているだけだ。

例えばこんな場所や

こんな場所


来週はプレートルの演奏会。舞台上の席を取ったのでダンディなマエストロがたっぷり見られるので楽しみだ。


「失語症の国のオペラ指揮者」

私がこの秀逸な書籍と出会ったのは、実はちょっとした運命の悪戯のおかげに他ならない。

ある日、音楽書のコーナーを散策していた私がタイトルが気になってこの本を手に取ってみたのは、日頃からドイツ語やイタリア語がまともにできない指揮者たちが、ろくでもない演出でオペラを指揮していることに批判的だった私と、同じ様な意見の人が他にもいるからに違いないと思ったからだ。

私の期待は見事に裏切られた。邦題「失語の国のオペラ指揮者」というタイトルのおかげで音楽書、それも指揮者のコーナーに分類されていたこの本の原題は"Defending the cave women and other tales of evolutionary neurology" つまり「原始人の女性を弁護する」というもので、直接音楽と関係する部分は第7章の、脳卒中の後重度の失語に見舞われたオペラ指揮者の話だけである。

にもかかわらず、脳神経科医である著者が、様々な脳の障害から解き明かす人間の進化の物語は実に興味深いだけでなく、私の人生と行動に直接的に様々な影響を与えることとなった。

まずは、何かを学ぶ為の「機会の窓」という考え方である。幼い子供が数年のうちに、何も教えなくてもごく自然に語学を習得してしまうのは良く知られた事実だが、これは母国語に限ったことではない。あるいは国籍の違う両親の元で育ち、あるいは外国で育った子供たちは、同様に日常晒されている言語を何のことはなく習得する。

私の友人でミュンヘンフィルのヴァイオリニストをしている中国人の女性がいる。彼女のご主人はフィンランド人で、二人はミュンヘンに暮らしている。彼らは日常はドイツ語で生活しているが、家庭では英語で会話する。問題はその娘である。

中国語とフィンランド語がいずれも世界でもっとも難しい言語に属することは、今さら説明するまでもないだろうが、彼らの娘は4歳のとき、すでに父親とはフィンランド語、母親とは中国語(北京語)、両親が一緒の時は英語、そして幼稚園ではドイツ語で会話していた。そして、それらが混ざり合うことはなかった。彼女が4歳のとき、パパやママと一言二言話したとき、いつもドイツ語で私に通訳してくれた。

ベニーは国籍はアメリカだが父親はオーストリア人、生まれてから7歳まで日本で育った。私は子供の頃のベニーを覚えているが、小学2年生までのベニーは同世代の日本の子供と何ら違いなく日本語で読み書きし、兄のフィリップとも日本語で遊んでいた。オーストリアに戻って2年程して変化が現れた。当時12歳だったフィリップは読み書きは忘れてしまったが、日本語での会話は普通にできる。まあ、そんなに気の利いたことを言う訳ではないが、所謂「外人アクセント」ではない。ところがベニーは日本語での会話能力を完全に失ってしまった。何が彼らに起こったのか?

外国語の早期教育が必要かどうか、この国ではいまだに議論されているが、この本の情報が真実なら結果はすでに出ている。遅くとも11歳までに習得されなければ、外国語を母国語と同じレベルで習得することは、著しく困難だし、少なくとも12歳までその言葉を使い続ける機会が続かなければ、会話能力を保持することは難しい。

このことは音楽の学習においても顕著だ。ピアノやヴァイオリンの様な基本的な音感を問われる楽器は11歳以下ではじめなければ「母国語を話すのと同じ様な流暢なレベル」には決して達しない。

私が初めてドイツ語を学ぼうとしたのは12歳。そろそろ機会の窓が閉じて、限界の迫っていた頃だ。半年あまりの後、中学1年生の私の担任の教師は「英語の学習に混乱を生じる」という理由でドイツ語の学習をやめる様に、私の両親に強硬に申し入れる。あのとき続けていたら、散文や詩の細やかなニュアンス、新聞や雑誌の反復を避けたり専門用語を使った特定な言い回しをもっと自然に、もっとはっきりと理解できる様になっていたのではないかと悔やまれる。

にもかかわらず、この半年間に覚えたドイツ語への入り口が、その後21歳の時に再びドイツ語をはじめたとき、どれほど役に立ったことか!

ところで、少なくとも日本では12歳以上で初めて楽器を触った子供たちの多くが、様々な管楽器を驚異的なレベルで習得するのはなぜなのか?
新たな疑問が湧き起こってくる。

著者がすでに亡くなっているのが残念だが、オリヴァー・サックスなど他の脳神経学者の作品も読んでみたくなるし「レナードの朝」も見てみたくなった。

翻訳も秀逸で、翻訳者が医学や生物学に精通していることが伺える。

2011年10月19日水曜日

ワイン祭り、カボチャ祭り

ウィーンから簡単に行ける魅力的な町なのでレッツについてもう少し書いてみたいと思う。

人口4,218人とは驚いた。いくら何でももう少し居るかと思ったのに。


Wien Mitteからなら75分、Pratersternからなら70分で行ける。
Pratersternからは毎時2分に直行のRegionalzugがある。

毎年9月末はワインの収穫祭10月末にはカボチャ祭りが行われる。


小さな町がこの時ばかりは人であふれかえる。


市役所の塔は結構高くて見晴らしも良い。


郊外(とは言っても中心から歩いて10分ほど)の丘の上には風車小屋と小さいホイリゲがある。


10月までは毎週末にDrosendorfまでの区間に特別列車が走る。写真は1930年代に作られたディーゼルカー。


駅の近くのレストラン、その名も“Weinschlössl”(ワインのお城)ではウィーンのレストランの半値くらいで気の利いた食事ができる。

日本語のガイドブックには載っていないが一度は訪ねてみてはいかがだろう。

オーストリアの小さな町Retzのワインケラー


ちょっと寒いけれどあまりに天気の良い日が続くので、ウィーンから鉄道で北に1時間ほど、チェコ国境近くのRetz、正確にはUnterretzbachに行ってきた。
RetzはNiederösterreich州のWaldviertel(森林地域)と呼ばれる地域とWeinviertel(ワイン地域)と呼ばれる地域のちょうど境目あたりにある小さな町だ。この町から毎週木曜日、ウィーンのMargaretenplatzにテントを張ってワインやハム、ピックルスなどを売りに来ているレッツのワイン製造家Pollakを訪ねた。


あいにくご主人は留守だったが、奥さんが応対してくださった。家のすぐ裏は15ヘクタールのワイン畑。比較的小さなヴィンツァーだがかなり色々な種類を作っている。

いろいろワインを試飲させてもらった後「主人がいないからご案内できないけど、ケラーの鍵を貸してあげるからかってに見てきて」と奥さんが鍵を貸してくれた。


ケラーを覗いて、帰りに交差点まで戻ると「チェコ共和国600m」と書いてあった。ケラーは合計何百キロもあって、中にはチェコ側まで伸びているものもあるとか。


2006年のBlauburgerは傑作だったが私が30本以上買ってしまったので、もう残りがない。今回は2008年のZweigeltを何本か届けて貰うことに。セミバリックなので、コクのあるワインだ。

ウィーンに来る方はお楽しみに。

2011年10月18日火曜日

クルージングナビゲーションに吹き出す

飛行機の中では、特にヨーロッパ方面に向かう時はほとんど映画なんか見ない。
あの小さいスクリーンで見ても面白くないし、目が痛くなるし。

その代わりよく見るのがクルージングナビゲーション。シベリアの景色は
1時間くらい変わらないところばかりなので、しばらくウトウトした後に
「ああ、スタノボイ山塊こえたか」とか「もうすぐオビ川の河口か」とか
「やっとウラル山脈を越えた」とか「今日は南よりの進路でバルト海の上は飛ばない」
とかそんなことがわかる。

しかし、あのプログラム、どこで作っているんだろう?特に日本語の表示は
ばかでかい明朝系のフォントで、日本語としても間違いだらけの上、地名は
でたらめも良いところ。グーグルマップとは大違いだ。

例えばイェーテボリは「ゴテボルグ」マルメは「マルモ」ニッシェルピンは「ニコビン」
(スカンジナビアの地名が特にひどい)ライプチッヒは「レイプチヒ」コシツェは「コシス」
グラーツは「グラッツ」テルチは「テルク」など、到底ヨーロッパ人が日本語で書いたのでもない。
ボーイングの子会社 にでもいる、ちょっと日本語のできる韓国人か中国人、と言うのが私の
想像だが、高額なプログラムだろうに、何であんなにいい加減なことを するのか理解できない。
「バウ」に載っている香港で買った漢方薬の日本語の説明文の様だ。

このへんてこ日本語で表示するプログラムに航空会社はいくら払ったのか知らないが、
日本人なら大学生のアルバイトでももう少しましなプログラムを書くだろう。
こういう無駄を徹底的になくさないと、航空会社に未来はない。

2011年10月16日日曜日

25年ぶりの学生生活

10月12日にウィーンに戻った。前日は鹿島神宮で宮大工の棟梁、Z氏と明け方まで痛飲した。Z氏が空港まで車で送ってくれる。流石にさいたまから行くのとは違って40分でターミナルに到着。お陰で機内では珍しく少し眠れた。

13日にウィーン国立音楽大学の古楽科に履修登録をする。とは言っても週1日、4時間だけの、日本で言ったら科目履修生だ。登録期限が14日までだったのでぎりぎりだったが、何と25年前の学籍番号がまだ有効なまま残っており、お陰で「初回登録」の長い行列に並ばないで直接履修登録だけを行うことができた。何でも、オーストリアでは学籍番号(Matrikennummer)は一度取得したらずっと有効なのだそうだ。

必要だったのは担任のRainer教授のサインだけだったので、サインをもらおうとしたのだが、教授は一区のSingerstrasseの教室にいるらしい。ここは25年前に和声の授業があった教室で、音大の他の校舎とまったく別の所に部屋がある。しかも入り口はSingerstrasseではなくてSailerstätteにあるのでまことに紛らわしい(よく「ウィーン国立音楽大学ってどこにあるんですか?」って訊かれるが「ウィーンじゅうにある」としか答えようがない。まあ、今は主だった教室は3区のAnton von Webern Platzにあるが)。

25年前にトイレが見つからなくていらいらした建物の中はすっかり改装されてきれいになっている。ポジティフオルガンやチェンバロが沢山おいてある部屋を通り抜けて先生の部屋に入る。

無事サインをもらって、レッスンやゼミの日程、課題などの詳細を聞いてくる。授業の開始は10月末、課題はバッハのカンタータ第78番”Jesu, der du meine Seele”だそうだ。
とりあえず、シュッツやモンテヴェルディやラモーやヘンデルじゃなくてよかった。はじめからこの辺をやられるとわからないことが多そうだから。

新バッハ全集に関して早速先生と話が盛り上がってしまう。「何か用意しておくことはありますか?」と訊ねると「正しい楽譜の読み方 バッハからシューベルトまで」という日本語の本を頂いた。先生の講義録であるが、何と著者は大島富士子女史ではないか。
お話しは尽きなさそうだったが、書類を学校に持って行かなくてはならないので中断してその場を辞する。

古い学籍番号のお陰で25年前の住所の印刷された登録票がプリントされてきてしまうハプニングもあったが訂正してもらい、ともかく無事に登録が終了する。

週末、ウィーンは冷え込んだが朝から空気が澄み切って空は雲一つない。この時期のウィーンには珍しいことだ。子供のレッスンの帰りに大学時代の友人Eddaにこれまた25年ぶりにばったり出会った。

ウィーンは、狭い。

2011年10月4日火曜日

シャッター通り

どんどん店が潰れていく。

うちの前の道はウィーンの中ではかなり活気のあるバス通りで、1.5kmほどある坂道だ。以前はウィーン料理屋も何軒かあったし、古ぼけてはいても商売にはなってそうな店が多かった。 
リーマンショックの後くらいからどんどん店が潰れ始めた。
2、3ヶ月に1軒は店が潰れる。場所によっては次のテナントが入るが、すぐまた潰れてしまうところもあるし、ひどいところはかなり立地のよい角地なのに2年も空き家になったままだ。お陰で夜遅く家に着いて何も食べるものがなくても玄関を出て3分で入れるウィーン料理屋もなくなったし、雨の日も濡れないでパンを買えたパン屋もなくなってしまった。
一番近くにあったBAWAG(労働経済銀行)も最近潰れた。ここはリーマンショックの直前まで日本の国債を買っていて、ユーロ高で一旦破綻しかかって郵便貯金と一緒になったところだ。 新しくできる店と言えばスポーツ賭博付きのゲームセンターばかりだ。

1区でも貸店舗の1割以上が空き家だそうだが、中心部から5キロも離れていないこの辺の通りではその倍くらいは空き店舗になっているみたいだ。ブダペストのラコッツィー通りでも東駅のすぐそばまで半分以上の店がシャッターを下ろしたままだった。

ウィーンに来てもケルントナー通りとグラーベンくらいしか見ていかない観光客や、ザッハーやインペリアルに泊まって証券取引所くらいしか行かない経済評論家にはわからないだろうが、これがヨーロッパでも比較的経済状態のよいとされるオーストリアの現実だ。アメリカの格付け会社の格付けに騙されてはいけない。
日本でこれほどのシャッター通りが続くのは前橋、伊勢崎、甲府などの地方都市の、車でのアクセスの悪い部分だ。 
気になる事実がもう一つある。
8月にウィーンに戻ったら銀行から新しいキャッシュカードが届いていた。
同封の書類に一日あたりの利用額の説明がある。
ATM利用の場合の一日あたりの引き出し限度額は400ユーロでこれは変わらない。問題は窓口利用の場合の引き出し限度額で、以前は窓口なら無制限だった。



(これは1区の伝統あるビアホール、スムフニーの跡)

これが新しいキャッシュカードでは「1日」1100ユーロとされている。
もちろん、私はろくにお金を入れていないから大して困らないが、賢明なる諸兄はこの事が何を意味しているか、すぐにおわかりになるだろう。

これがヨーロッパの現実だ。