2012年12月30日日曜日

ヴェブレン効果

「自動車や時計など、同じ機能でもあえて高い価格のモノを選んでしまうことがある。その理由は人間の見栄や安心感」。
「このように、その商品のもつ機能や品質とは別に生まれる価値のことを『消費の外部性』という」。


そういう現象があることは知っていたが、呼び方は知らなかった。
(あえていうなら「経済外的要因」と言っていた)。

日本車など日本製品が海外で売り方を失敗しているのではないかと思う最大の原因は「安くて性能の良い日本製」という高度成長時代からのイメージが定着していること。これでは円高になると売れない。

かといってその逆を行ったライカのカメラなどは結局手作りでしかできない究極の高級品を目指したが結局潰れてしまった。コストに対して汎用性が低すぎたのだ。ベンツやベーエムヴェーは相当悪趣味なデザインでもチンピラのお兄さんによく売れる。

「安くて良い」を徹底的に追及するとニトリやユニクロの様になるけど、どうやら同業他社を圧迫してこれまた評判が良くない(イケアは安くてデザインも良いが、まわりを見ているとどうも組み立てるのがめんどくさい、またはうまく組み立てられない人がかなり多く、これで苦戦するだろう。日本にはDIYの伝統が欧米ほどないのだ)。

「スノッブ」という言葉は「なんちゃって上流・インテリ」を揶揄することばでしかないので、ネガティブなイメージしかないが。

余談だが、テレビのコマーシャルや新聞や雑誌の広告を見てものを買ったことは、今まで数えるほどしかない。通販は最近ある程度あるが、これはこちらからカタログを取り寄せたり、HPを見たりして買っている。ほとんどは口コミや、実際に通りかかった店で実物を手に取って買う。

私の様なタイプの人間が増えると、既存のコマーシャリズムは通用しなくなって行くのだろうが、その心配はあまりなさそうだ。


2012年10月22日月曜日

セルパン、オフィクレイド、バスホルン

昨今、オーケストラで再びセルパンやオフィクレイドが使われるようになってきました。

ベルリオーズの「幻想交響曲」にはオフィクレイドのパートがありますし、ワーグナーも「リエンチ」でセルパンとオフィクレイドを、メンデルスゾーンも様々な作品に「セルパン」「オフィクレイド」「バスホルン」などを指定しています。

最近、初期ロマン派の作品を演奏する際に金属製、または木製に皮をかぶせた黒いヘビ型のセルパンを使っているのを見かけますが、残念ながらこの時代のセルパンって言うのは、こういうヘビ型の物じゃないのです。金属製のベルがあって、俗にロシアンバスーンとよばれる、かなりオフィクレイドに近い物です。

教会ではヘビ形の物が19世紀中頃まで使われていましたが、オーケストラで使われたのはこんな形の物です。
名称も「オフィクレイド」「ロシアンバスーン」「バスホルン」などと定まりません。金管楽器ですが、基音から実用音域で、低い倍音を使います。管体の構造と材質から余り輝かしい音はしませんが、ヘビ型のセルパンはロマン派の作品には向きません。他の楽器と余りに性能が違うからです。

19世紀中頃までは楽器の名称に様々な齟齬があるし、実験的に少数作られたり一度しか作られなかったような楽器、特定の地方で使われていたけど、他の地方ではまったく使われないものなども多かったのです。

「セルパン」というと、一番上の写真の物だと思い込まれてしまいますが、メンデルスゾーンの頃にこういう楽器をオーケストラで使ったとは思いません。
セルパンの音はこんな感じです。

メンデルスゾーンは「真夏の夜の夢」でも「オフィクレイド」を指定していますが、「宗教改革」のセルパンパートはossiaコントラファゴットになっています。そういう例はワーグナーの「リエンチ」などでもあって、いずれもバスホルン(ロシアンバスーン)で演奏されたと思われます。19世紀中頃にはボンバルドン、その後にはトゥーバに置き換えられていきます。それらも今日の物とはかなり違います。
 そうやって音楽が変わっていくこと自体は、面白いと思います。シューマンやメンデルスゾーンはバッハのシャコンヌにピアノ伴奏を付けて演奏したりしていますから。但し、正しい知識為しに楽器を選ぶと何だか訳のわからないことになります。

非常に問題なのは、ヴァルブ装置ができるまでのF管やG管のトロンボーンが非常に難しかったため、バス記号の下の音域にはよくこうしたバスホルンなどが当てられました。そして、時代と共にトロンボーンがはるかに下の音域まで早いパッセージを演奏できるようになっても、作曲家は当時の慣習に従ってトロンボーンパートの4番目の声部をオフィクレイド、ボンバルドン、のちにはトゥーバのために作曲しました。ところがこれらの楽器達はまったく違う変遷を経て、太い口径と大きなベル、大きなマウスピースで演奏するモダントゥーバに置き換えられてしまいました。こうしたことは各楽器で起こりました。その結果、20世紀初頭にはオーケストラの楽器管の音量バランスが、18世紀から19世紀中頃までの作曲家が想定していたのとは大きくずれ始めるのです。例えばモダンのピッコロ、トゥーバ、ティンパニなどの音量には他の楽器は太刀打ちできません。管楽器全体がセクションとしてオルガンのように響くことはなくなってしまったのです(こうしたバランスを作るのは本来指揮者の責任なのですが、そもそもそういうバランスを聴いたことがなければ、モダンの楽器を見て正しいバランスをイメージするのは難しいことなのです)。

オフィクレイドの演奏が聴けるリンクをいくつかご紹介します。
フンメルのピアノとオフィクレイドのためのソナタ
http://www.youtube.com/watch?feature=endscreen&NR=1&v=hGBmqthNjOs
これはオフィクレイドによるアンサンブルです。
http://www.youtube.com/watch?v=XUS-NJ8nSnIはじめのセルパンの音色とどちらがロマン派の作品に適しているかはこれらを聴いてみればおわかりになると思います。

2012年8月26日日曜日

日本の英語教育は国家的な膨大な時間と労力のロス!

現状での日本の英語教育は国家的な膨大な時間のロスだと思います。


子ども達にも過度な負担を強いていますし、どうせ使えないような英語を教えるために、何千時間も勉強するのは馬鹿げています。もっと役に立つ知識、学問、スポーツや芸術に振り向ける時間を増やして欲しいと思います。


過去100年近く、子供達に中学高校と毎週何時間も英語の授業を受けさせ、年間何百時間も英語に使っているのに、日本の一流と言われる大学を卒業し、有名企業の管理職となったような人でも、ほとんどの人が英語をろくに使いこなせていません。企業の社長クラスの人が海外に行っても飲食店で「おねーさーん!」「すみませーん!」などと連発し、メニューを指して「これ!」などと注文するのがやっと、おまけにサービスを受けても「Thank you」の一言も出てきません。機内サービスでも「Coffee or tee?」って訊かれて「Coffee」だけで「Please」の言えない人がほとんど。「No, thank you」や「You are welcome!」も出て来ない。60代以上の人に多いですが、そういうおじさんが大挙して海外に行ってスープをすすったり、他人のお皿から料理を取り分けたり、フォークの背中に料理を乗せて食べたりしているで、恥ずかしい思いをすることが頻繁にあります。


日本では長期間、英語(その他いくつかの外国語)は漢文にレ点を付けて読むのと同じように教えられてきた結果、翻訳のテクニックと、それを利用した受験のための謎解きテクニックとして、外国語がその言葉の話される国の言葉とかけ離れ、日本でしか通用しない特殊な学問になってしまいました。


次の100年間も英語が国際語であり続けるかどうかはわかりませんが、インターネットの普及などで英語ができることは非常に有利な前提条件となります。少なくとも日本では可及的速やかに現在の英語教育のあり方を改めるべきだと思います。


まず第一に、海外在住経験のない(あるいは日本在住でも家庭内でネイティブとして英語を使っていた人以外の)新卒教員に英語を教えさせるのははじめから無理な話です。新規に資格試験などを全員に受けさせ、英語のみでの充分なコミュニケーション能力のない英語教員は担当から外すべきです。語学教員については新卒であろうがなかろうが、充分な語学力、特に会話力のある人間を採用するべきです。実際には募集すれば40歳以下でも非常に優秀な人材が沢山いるはずです。いなければ私が紹介します。


その上で、英語教育は行うのならば、遅くとも小学校1年生から始め、中学校以降は選択科目にするか、必修から外し、入試科目からも外してしまえばいいと思います。それによって語学学習の負担が大幅に軽減されます。1990年代には脳の研究からすでに「言語は母語話者と同レベルに習得されるのは概ね5歳から11歳の間で、それ以降は母語に接ぎ木されたような状態でしか習得されない」ということがわかっているからです。小学校で毎日1時間、英語のみの授業を、きちんと喋れる教員が教えれば、日本の小学生もフィンランドの小学生のように、高学年になれば誰でも英語がベラベラになるはずです。語学教育で成功している国はどこもそうしています。


丁度、脳の発達の段階として語学を学ぶのには最も都合の悪い時期(12歳以降)に、英語を始めて中高生の脳を本来この時期に学ぶべき、もっと複雑で高度な思考能力を要する学習から遠ざけるべきではありません。語学というものは文法が先にできた訳ではなく、文法はある言語を説明するために後付けされているので、英語のようにケルト、ローマ、ノルマン、アングロ・サクソンと様々な語源をもった言葉は本来文法の例外が多く非論理的で、論理的思考力があればあるほど相克が激しいです。


英語は母音の多さ、文法の例外の多さ、正書法の複雑さ、方言の多さなどからも世界で最も難しい言語の一つです。本来はドイツ語のように母音の少なくて文法も例外の少ないヨーロッパ言語を一つ習得していると、英語の学習は簡単なのですが、そうした言語に馴染みのない日本人にいきなり英語を学ばせるのは本来非常に骨の折れることです。


私はそもそも6-3-3-4のくくりで中学、高校、大学に受験勉強などさせるのは反対ですが、もし小学校で英語を打ち切ってしまえば、寧ろ高校や大学の入試では出題者は必要に応じて、例えば物理や生物の入学試験を英語のみで出題したり、東洋史や東洋哲学などの場合は中国語のみで出題する、などというのもありだと思います。つまり、中学、高校においては希望者は進路に応じて、より専門的な英語や、第2外国語を選択すればよいのです。


私は子供を6歳からオーストリアのウィーンで小学校に行かせています。こちらでは少なくとも私立の学校では小学校1年生から英語を教えます。もちろん、外国人と英語で会話のできないような先生は一人もいません。マルチリンガルにするなら英語圏より、非英語国で早期から英語教育の行われている国がよいです。その国の言葉はもちろん、英語も同時に習得されるからです。3年生の長男は文法的なミスは多いものの、すでにドイツ語はネイティブ並み、英語は日本の中学校2、3年生並みにはできると思います。


今後、日本の英語教育を変えていくために、様々なコンサルティングや、ボーディングスクールの顧問、親子留学のすすめなどを行っていきたいと思います。

2012年7月15日日曜日

いじめ問題と死刑制度に関する考察

「人間の脳には悪人を罰することで快感を感じる部位がある」ことをご存じですか?「側座核」という部分です。

http://www.nhk.or.jp/special/onair/120129.html

人は他人が痛みを感じる姿を見ると脳の島皮質がはたらき不快になる。でも事前に「これは悪人への罰なだ」と情報を与えてから同じものを見せると側坐核がはたらき快感を感じる。つまり、理由が正当(その人にとって)であれば、躊躇なく残酷なことも出来るように人間の脳は設計されているというわけです。また「人間は閉鎖的な環境下においてはより権威のある人間の言葉には疑問を持たないで従う」という実験結果もあります(ミルグラム実験)。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%AB%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%A0%E5%AE%9F%E9%A8%93

「必殺仕掛人」の様なシリーズが人気番組になるのはこういうメカニズムがあり、他にもこうした勧善懲悪型シリーズは多いです。

「いじめ」と「死刑制度」には人間の脳の働きによる代償行為という共通点があります。犯人を死刑にしても死んだ人が生き返る訳ではありません。犯人の死が「償い」になるという考えは復讐という「呪術的代償」を求める集団的快楽行為に過ぎないのです。「私刑」などはこの典型ですし、文明社会であり得ないことです。嘗ては様々な社会でこの様な「代償的懲罰行為」が行われてきました。犠牲者は「異端者」「魔女」「人民の敵」「赤」「トロツキスト」「ユダヤ人」など様々な名称で呼ばれ大抵はなんのとがもない人です。大衆は「異端者」「魔女」「人民の敵」「赤」「トロツキスト」「ユダヤ人」が殺され、焼かれることで「正義が行われた」と感じ、精神的に強い快感と安心感を得ます。


人類の歴史上「公開処刑」は常に集団がこうした快感を感じるためのアトラクションとして行われてきました。「いじめ」も「悪人」と決めつけられた犠牲者を「罰する」ことで集団が「代償的快感」を得ようとする(つまり「自分たちは悪人を罰しているのだ」と思い込むこと)によって行われます。いじめたい側は「いじめというレジャーを楽しむ」ために「犠牲者と、いじめる理由」を探すのです。彼らにとって理由は外見であろうが、方言であろうが、何でもいい。新入生や新入部員などに対して通過儀礼として一括して行われる事もあります。


今回の加害者や学校側に対する批判の中にもいささか疑わしい物があります。先日、サカナクンが水槽の中の「メジナ」を例に挙げていましたが、この様な人間関係の中では常に被害者と加害者が逆転する危険をはらんでいます。つまり、ミクロ的にはすでに被害者が亡くなって「イジメの対象」がいなくなってしまっている集団(小さくは中学校なり、地元、大きくは社会全体)は次の対象を必要としている状況です。インターネット上ではすでに事件とは無関係の人の電話や写真まで晒され、そこに抗議の電話が殺到したりしているようです。


幼稚園でのイジメから企業での新入社員イビリまで実は日本社会はこの様な事件を起こす体質が蔓延しています。本来事件が起きてから関係者を処罰するのではなく(事件が起こった後で少数の関係者に全責任を押しつけて処罰するのは簡単でしょうがそれではこの様な事件はいつになってもなくなりません)この様な事件を起こす様な社会の体質が批判されなくてはならないと思います。

2012年6月24日日曜日

エストニア・タリンでの指揮マスターコース

タリン室内管弦楽団


今年8月4日から10日まで行われる指揮マスターコースに受講のキャンセルがあったので欠員が2名出ました(レッスン開始は8月5日)すでにいったん締め切ってしまっていましたが、7月20日まで追加の募集を行います。
申込は下記までメールで。

info@nichidoku.net




今年の指揮マスターコースは3年ぶりにエストニアの首都タリンで行います。



世界遺産に指定されたタリン歴史地区


オーケストラはタリン室内管弦楽団です。エストニアは旧ソ連から独立して20年あまりの若い国ですが、フィンランドと近くバルト3国の中でもっとも経済的に安定しています。




前回、2009年のマスターコースの際の映像
メンデルスゾーン 交響曲第4番「イタリア」 
プロコフィエフ 交響曲第1番「古典」

ピアノレッスン 今年は1日だけ行います。

前回、2009年にタリンで行われたマスターコースの際の写真を少しご紹介します。

まず最初にピアノを使って課題曲の準備をします。
主に指揮の難しい部分だけを前もって練習しておきます。

会場の教会、今年は別の会場になります。








練習はエストニア放送局のスタジオ、修了演奏会は市内の教会で行われます。




ピアノコンチェルトも演奏しました。







照明が暗いので譜面灯を付けての練習になりました。 













「のっぽのヘルマン」と呼ばれる塔です。
こんな建物が町中にあります。











マスターコースのプログラムは

ハイドン 交響曲第83番
モーツアルト 交響曲第33番
ベートーヴェン 交響曲第2番第8番、ピアノ協奏曲第2番
シューベルト 交響曲第2番
第5番
などの他、2管編成の作品から選ぶこともできます。
コンクールの準備などのため、ビデオ撮影を行うこともできます。


タリン歴史地区は世界遺産に登録されています。





タリンの旧市庁舎、ラエコヤ広場という大きな広場にあります。
日中はたくさんオープンカフェが出て賑わいます。





ヘルシンキからのフェリー、これは8月の23時頃です。 





















タリンの町は治安も大変良く、夏は日が暮れるのも遅いので安心して過ごせる町です。これは夕方7時頃の写真です。



タリンの港、ヘルシンキ〜タリンは高速船で1時間半ほどです。








英語が大変良く通じます。旅行者には快適な町です。

史上最悪のインフレを起こした国

皆さんどこだか知っていますか?

それは、ハンガリー。

私も1923年のドイツのインフレが最悪と思っていたので知りませんでしたが、

ハンガリーでは第2次世界大戦後16年間で貨幣価値が1垓3000京分の1になりました。垓ってわかりますか?普通10の20乗って書くのでよくわからないんだけど。

1300000000000000000000倍のインフレって言うこと?

東欧、南欧の諸国ではインフレは経済システム自体に組み込まれていて負債などはインフレになることによって何年後かには返せたんです。それが、ユーロ連動になって急に「インフレ率3%以下」なんて決められたら各国とも行き詰まるのが目に見えていますね。

ハンガリーは極右のオルバン政権の元、国粋主義的な政策が進められています。首都ブダペストを見る限り、この1年ほどで多少経済的に立ち直ってきた感じがしますが、憲法も頻繁に改正され、報道の自由など国民の権利が制限されています。

2008年にIMFに支援を仰いだあと、3%以上の成長を表明していましたが、実際には2%そこそこ。それも通貨フォリントをユーロに対して切り下げ、西側からの個人向け借款をフォリントで払うなどかなりの妥協を続けての上です。

これは中央市場の様子ですが、野菜などはかなり豊富にあります。











しかし地下鉄の車輌などはほとんどが旧ソ連製で40年以上前の物がそのまま使われています。西駅の構内にはホームレスも多数います。
多くは年金だけでは家賃も払えないお年寄りです。

2012年6月18日月曜日

スター指揮者によるオーケストラのワールドスタンダード化

今月半ばから今日まで、Musikvereinでバレンボイム、シュターツカペレベルリンがブルックナーの交響曲全曲演奏を行いました。私はバレンボイムは嫌いなので本当は聴きたくなかったのですが、まったく聴かないで批判をするのもいやなので我慢して昨日の8番だけ聴いてきました。やはりひどい物でした。ウィーンに来てブルックナーの交響曲をその間の練習無しで9曲連続で演奏すると言うこと自体、良い度胸ですが、十数年で良くもこのオケの音をこれだけ壊し、まったく恣意的なテンポ設定、バランスも酷い、おまけに指揮の技術自体がなっていないからはじめから最後までオケがずれっぱなし。クーベリックやヨッフム、ヴァントという人たちの素晴らしさが再認識されました。



1980年代まではヨーロッパの各町のオーケストラは専門家でなくてもはっきりと音の違いがわかるくらい強い個性がありましたが、バレンボイムのような指揮者が蔓延して、どのオーケストラにもインターナショナルスタンダードの音色と強力な音量を要求し、オーケストラの個性はすっかり失われてしまいました。さらにカラヤンが自らの解釈を「今後永久に通用するようなスタンダードな」演奏として売り込み、何百万枚ものCDが大量生産されて誰の耳にも強い印象を残してしまったことが、音楽の解釈の面でも均質化を促しました。メータ、アバド、レヴァイン、ムーティと言った人たちはそれに立ち向かえるだけの強力な個性を持ち合わせていなかったし、クレンペラーやワルターのような音楽的な良心も持っていなかった。 東西の壁が崩れてバレンボイムやシノポリのような西側の売れっ子指揮者が音楽監督となった時、ベルリンもドレスデンも大喜びで彼らを迎えました。しかし結果、オーケストラの楽器や音色の違い、演奏の伝統など何も知らないこうした指揮者が伝統あるオーケストラの音色をめちゃめちゃにしてしまいました。同じバレンボイムが音楽監督をしていたパリ管弦楽団は短期間でドイツのオーケストラのスタンダードな音色と同じになってしまいました。例えばバッソンはみなファゴットに持ち替えさせられてしまったり、バッソンを吹いていた奏者は首席を外されました。ベルリンでも同様に昔からのドイツ式のポザウネ奏者はみな脇にどけられアメリカのトロンボーンに置き換えられてしまいました。


昔はどの国もどの町も、地元のオペラハウスが一番贔屓で、丁度スポーツチームと同じように地元のオペラやオーケストラを応援しつつ、叱咤激励した物ですが、今はどこかから呼んできた世界的スターばかりに人が集まるようになってしまいました。しかし、世界中に競争させたところで、演奏家のスタンダードなレベルは向上しても聴衆の鑑賞する力が向上したわけではありません。結局地元バイアスはかからないでも音楽の本質的なところがお座なりにされたままのスタープレイヤーの粗製濫造する演奏に、世界中の聴衆が慣らされてしまったのではないでしょうか?そして、本来演奏家の個性とは相容れない「コンクール」というものを演奏の世界に持ち込んで「どこのコンクールに通った誰だから聴きに行く」という、受け身な姿勢を世界中どこの国でも聴衆が受け入れるようになってしまったことが、クラシック音楽が衰退する第一歩だと思います。

2012年5月11日金曜日

指揮を学ぶと言うこと(主に、指揮講習会を受講された方に)

指揮講習会参加者の皆さん、今回来られなかった皆さん、お疲れ様でした。ブログ等に講習会でのことを書かれている方が多かったので、当日一人ひとりにゆっくりお話しできなかったことをいくつか書いてみたいと思います。

しばらくお休みしていた方、指揮も楽器と同じ。やはり、半年、1年、あるいはそれ以上に間があいてしまうと、手が思い通り動かなくなってしまうのもわかります。ある程度の頻度で5年間くらい続けていると、テクニックも解釈も、楽譜の読み方も大きく変わってくるのですが1、2回来てわかった様な気になってしまう人も多く(実際にわかってしまう人も居るけど)その辺の個人差は、音楽の基礎がどの位できているか、楽器や声楽がどの位できるか、などによります。

先ず楽曲のアナリーゼなど譜読みを徹底的にし、次に基礎的な図形で、楽譜に書いてあることを(ある意味音楽とは無関係に機械的に)叩いてみる、それに音楽付けをしていくというのが「基礎→骨組→建物」と言うような順序ある音楽の構築方なのですが、多くの人が基礎工事も骨組みもないところにいきなり家を建てようとします。




(さいたま芸術劇場での指揮講習会から)

指揮のテクニックは極めて記号的、数値的な情報と、感情・表現が同時に伝えられなくてはならないのですが感情・表現をするための動きが記号的な情報、特にパラメーターの変化を伝える情報を妨げてはならないという原則があります。逆にパラメーターの変化のない場所ではこれらの指標を出し続ける必要はないし、変化しないパラメーターをずっと出し続けられるのは、音楽をゲシュタルトする上での妨げになります。(注:パラメーターとは「変化できる数値」なので「パラメーターの変化」という言葉は本来ダブった言い方なのですが、他の言葉を使って説明するととても面倒なのでくみ取って下さい)。
ジョージ・プレートルの指揮を見ると音楽のパラメーターを一瞬で伝えて、後はゲシュタルトに専念していることがわかります。この「間」が指揮の芸術です。

よく「指揮が毎回変わる指揮者」に対して批判がありますが、譜読みの時はテンポはゆっくりと(あるいは単に弾きやすいテンポ)パラメーターははっきりと、それがGPまでにはゲシュタルトだけになっても良いので、ある意味リハーサルが進むにつれて振り方が変わるのは当然のことだと思います。もちろん、一貫した音楽作りの中での話ですし、この事は「毎回同じように振れない」ことのいい訳にはなりません。短時間で何かを仕上げなくてはならない時、レパートリーハウスでオペラの指揮をする時などに毎回振り方が違うと場合によっては事故の元です。

「表現をしたい」と言う部分に意識が行きすぎて手の動きが何拍目なのかわからなくなってしまう人が多いですが、パラメーターの部分がわからなければオーケストラにとってはただの「エア指揮者」に過ぎません。この辺のさじ加減は「経験」と言う人も居ますが、実は「譜読みをどのくらいしたか」でもあります(どんなに経験の豊かな指揮者でも譜読みをしていない曲は音楽的には振れません)。

もう一つは、自分の描いている図形など自分が様々な角度からどう見えているかを、ビデオや鏡で見なくても認識できる「空間認識力」です。これは指揮者に限らず、バレエダンサーでも、スポーツ選手でも持っている能力だと思います。ある意味、スポーツやダンスをやった方がつくかも知れません(日本舞踊、太極拳、合気道なども共通です。特に合気道は関節や筋肉の合理的な使い方が参考になります)。

それから、非常に大切なのは実際オーケストラから出てきている音を「しっかりと聴く能力」でもあります。オーケストラは指揮者がいなくても演奏できます。しかし、それが横方向(時間軸上)でも縦方向(各楽器のだしている音量や音程)でも正しいバランスであるか、自分の求めているアゴーギクか、アーティキュレーションか、和音は純正なのか、アタックやボーイングなどのニュアンスは理想的なのか、それらを考えた時、ある指揮者が譜読みをしながら構築して来たその指揮者の脳内設計図と、実際にオーケストラが1回目の練習で出す音が完全に一致することは、どんなに短い作品であっても、またどんなに優れたオーケストラであっても、本来あり得ないのです。そこで作品がある程度「まともに」聞こえるのは、多くの場合誰にもその作品に対する先入観があり、過去の大指揮者の演奏を知っており、何となく自分で聴いたことのある演奏のようになってしまえばそれで満足してしまうからです。

しかし、それではCDを聴きながらエア指揮者をしているのと何も変わりません。ですから、実際そこで鳴り響いている音の中から一つひとつの音を聞き分け、様々な修正を行って(それは必ずしも出ている音が音符に書かれている事と違っているからではなく、習慣的な演奏ではなくて、そこにその指揮者にしかない解釈と表現がなくてはならないからなのです)指揮者の頭の中で鳴っている音楽(これも聴いて覚えたのではなくて、楽譜という設計図から構築した建物を)に近づけて行かなくてはなりません。

もしある建築家が、コルビジェやアアルトや安藤忠雄の建物を見て来て、その設計図も知らず、重量計算も構造計算もせず、基礎工事も骨組みも作らず、雰囲気だけで建物を建てたとしたら、その建物に入って行ったり、そこに住んでみようと思いますか?音楽はもしそういう作られ方をしても「直ちに健康に害はない」からといって、それが正しいアプローチではないことは誰の目にも明らかだと思います。

私は何度か来られた方には事前に「CD(のみならず他人の演奏)を聴かないで下さい」と言うのですが、どうしても聴いてしまう方が多いので残念です。これはオペラの練習をする際に歌手の方にもお願いすることです。いろいろな演奏を聴き比べたりするのは良いことですが、それは普段、課題になっていない曲などを沢山聴くことでしてください。自分が指揮する(あるいは歌う)曲のCDを直前に聴くことでその曲の強い印象ができあがってしまうと、頭の中で鳴っているCDの音が実際にその場で出ている音を上回ってしまう件があります(この件についてはフルトヴェングラーの有名な逸話かあります)。ですから、自分が指揮する曲の他人の演奏を直前に聴くことは「まったくスコアを見てこなかった」のよりも害があると言っても言い過ぎではありません。どうしても聞きたい場合は、過去にやった自分の演奏を聴いて下さい(録音がある場合には)。指揮者にとっての作業のプロセスとは99%が譜読みであると言っても言い過ぎではありません。今後も、手の動かし方よりも(それも教えますが)いかに作品にアプローチするか、と言う方法を皆さんがより学んで下さるようにお願いします。


2012年1月18日水曜日

メトロノーム

最近電子式の物が多いが、私は昔ながらの機械式を愛用している。欠点は少々音がうるさいこと。電子式のピコピコはあまり大きな音は出ない物が多い。まあ、欠点は長所でもある。

テンポの話を始めるときりがないが、一昨日宮大工の市原善次郎さんと飲みながら話していて手斧(ちょうな)で木をハツる話になる。市原さんが西岡常一さんの下で働いていた時、良く兄弟子達と大勢で手斧をかけたのだそうだが、その時に大事なのがリズム、はじめにかけ始めた兄弟子のリズムのちょうどまん中で叩くようにみんなで打ち込んでいくそうだ。このリズムが崩れると怪我のもとだそうで、誰かが節に当たったりすると他の人がリズムだけ取って待っていてくれる。みんなのリズムが揃うと仕事をしていて実に楽しいという。

割り箸の後ろ側でテーブルを叩くとまさに「テンポ・ジュスト」!一緒にうちを見に来たお弟子さんに「ちょっとやってみな」と言って やってみるがうまくできない。私がメトロノームを出してくる。もう一度やってみる。

私は指揮者だからメトロノームと一緒でも半拍ずらしでも1/4でもできるが、これは意外と難しい。そしてまさに指揮を勉強するすべての人に「1日15分で良いからやって下さい」と言っている、その練習である。