今月半ばから今日まで、Musikvereinでバレンボイム、シュターツカペレベルリンがブルックナーの交響曲全曲演奏を行いました。私はバレンボイムは嫌いなので本当は聴きたくなかったのですが、まったく聴かないで批判をするのもいやなので我慢して昨日の8番だけ聴いてきました。やはりひどい物でした。ウィーンに来てブルックナーの交響曲をその間の練習無しで9曲連続で演奏すると言うこと自体、良い度胸ですが、十数年で良くもこのオケの音をこれだけ壊し、まったく恣意的なテンポ設定、バランスも酷い、おまけに指揮の技術自体がなっていないからはじめから最後までオケがずれっぱなし。クーベリックやヨッフム、ヴァントという人たちの素晴らしさが再認識されました。
1980年代まではヨーロッパの各町のオーケストラは専門家でなくてもはっきりと音の違いがわかるくらい強い個性がありましたが、バレンボイムのような指揮者が蔓延して、どのオーケストラにもインターナショナルスタンダードの音色と強力な音量を要求し、オーケストラの個性はすっかり失われてしまいました。さらにカラヤンが自らの解釈を「今後永久に通用するようなスタンダードな」演奏として売り込み、何百万枚ものCDが大量生産されて誰の耳にも強い印象を残してしまったことが、音楽の解釈の面でも均質化を促しました。メータ、アバド、レヴァイン、ムーティと言った人たちはそれに立ち向かえるだけの強力な個性を持ち合わせていなかったし、クレンペラーやワルターのような音楽的な良心も持っていなかった。 東西の壁が崩れてバレンボイムやシノポリのような西側の売れっ子指揮者が音楽監督となった時、ベルリンもドレスデンも大喜びで彼らを迎えました。しかし結果、オーケストラの楽器や音色の違い、演奏の伝統など何も知らないこうした指揮者が伝統あるオーケストラの音色をめちゃめちゃにしてしまいました。同じバレンボイムが音楽監督をしていたパリ管弦楽団は短期間でドイツのオーケストラのスタンダードな音色と同じになってしまいました。例えばバッソンはみなファゴットに持ち替えさせられてしまったり、バッソンを吹いていた奏者は首席を外されました。ベルリンでも同様に昔からのドイツ式のポザウネ奏者はみな脇にどけられアメリカのトロンボーンに置き換えられてしまいました。
昔はどの国もどの町も、地元のオペラハウスが一番贔屓で、丁度スポーツチームと同じように地元のオペラやオーケストラを応援しつつ、叱咤激励した物ですが、今はどこかから呼んできた世界的スターばかりに人が集まるようになってしまいました。しかし、世界中に競争させたところで、演奏家のスタンダードなレベルは向上しても聴衆の鑑賞する力が向上したわけではありません。結局地元バイアスはかからないでも音楽の本質的なところがお座なりにされたままのスタープレイヤーの粗製濫造する演奏に、世界中の聴衆が慣らされてしまったのではないでしょうか?そして、本来演奏家の個性とは相容れない「コンクール」というものを演奏の世界に持ち込んで「どこのコンクールに通った誰だから聴きに行く」という、受け身な姿勢を世界中どこの国でも聴衆が受け入れるようになってしまったことが、クラシック音楽が衰退する第一歩だと思います。
0 件のコメント:
コメントを投稿