指揮講習会参加者の皆さん、今回来られなかった皆さん、お疲れ様でした。ブログ等に講習会でのことを書かれている方が多かったので、当日一人ひとりにゆっくりお話しできなかったことをいくつか書いてみたいと思います。
しばらくお休みしていた方、指揮も楽器と同じ。やはり、半年、1年、あるいはそれ以上に間があいてしまうと、手が思い通り動かなくなってしまうのもわかります。ある程度の頻度で5年間くらい続けていると、テクニックも解釈も、楽譜の読み方も大きく変わってくるのですが1、2回来てわかった様な気になってしまう人も多く(実際にわかってしまう人も居るけど)その辺の個人差は、音楽の基礎がどの位できているか、楽器や声楽がどの位できるか、などによります。
先ず楽曲のアナリーゼなど譜読みを徹底的にし、次に基礎的な図形で、楽譜に書いてあることを(ある意味音楽とは無関係に機械的に)叩いてみる、それに音楽付けをしていくというのが「基礎→骨組→建物」と言うような順序ある音楽の構築方なのですが、多くの人が基礎工事も骨組みもないところにいきなり家を建てようとします。
指揮のテクニックは極めて記号的、数値的な情報と、感情・表現が同時に伝えられなくてはならないのですが感情・表現をするための動きが記号的な情報、特にパラメーターの変化を伝える情報を妨げてはならないという原則があります。逆にパラメーターの変化のない場所ではこれらの指標を出し続ける必要はないし、変化しないパラメーターをずっと出し続けられるのは、音楽をゲシュタルトする上での妨げになります。(注:パラメーターとは「変化できる数値」なので「パラメーターの変化」という言葉は本来ダブった言い方なのですが、他の言葉を使って説明するととても面倒なのでくみ取って下さい)。
ジョージ・プレートルの指揮を見ると音楽のパラメーターを一瞬で伝えて、後はゲシュタルトに専念していることがわかります。この「間」が指揮の芸術です。
よく「指揮が毎回変わる指揮者」に対して批判がありますが、譜読みの時はテンポはゆっくりと(あるいは単に弾きやすいテンポ)パラメーターははっきりと、それがGPまでにはゲシュタルトだけになっても良いので、ある意味リハーサルが進むにつれて振り方が変わるのは当然のことだと思います。もちろん、一貫した音楽作りの中での話ですし、この事は「毎回同じように振れない」ことのいい訳にはなりません。短時間で何かを仕上げなくてはならない時、レパートリーハウスでオペラの指揮をする時などに毎回振り方が違うと場合によっては事故の元です。
「表現をしたい」と言う部分に意識が行きすぎて手の動きが何拍目なのかわからなくなってしまう人が多いですが、パラメーターの部分がわからなければオーケストラにとってはただの「エア指揮者」に過ぎません。この辺のさじ加減は「経験」と言う人も居ますが、実は「譜読みをどのくらいしたか」でもあります(どんなに経験の豊かな指揮者でも譜読みをしていない曲は音楽的には振れません)。
もう一つは、自分の描いている図形など自分が様々な角度からどう見えているかを、ビデオや鏡で見なくても認識できる「空間認識力」です。これは指揮者に限らず、バレエダンサーでも、スポーツ選手でも持っている能力だと思います。ある意味、スポーツやダンスをやった方がつくかも知れません(日本舞踊、太極拳、合気道なども共通です。特に合気道は関節や筋肉の合理的な使い方が参考になります)。
それから、非常に大切なのは実際オーケストラから出てきている音を「しっかりと聴く能力」でもあります。オーケストラは指揮者がいなくても演奏できます。しかし、それが横方向(時間軸上)でも縦方向(各楽器のだしている音量や音程)でも正しいバランスであるか、自分の求めているアゴーギクか、アーティキュレーションか、和音は純正なのか、アタックやボーイングなどのニュアンスは理想的なのか、それらを考えた時、ある指揮者が譜読みをしながら構築して来たその指揮者の脳内設計図と、実際にオーケストラが1回目の練習で出す音が完全に一致することは、どんなに短い作品であっても、またどんなに優れたオーケストラであっても、本来あり得ないのです。そこで作品がある程度「まともに」聞こえるのは、多くの場合誰にもその作品に対する先入観があり、過去の大指揮者の演奏を知っており、何となく自分で聴いたことのある演奏のようになってしまえばそれで満足してしまうからです。
しかし、それではCDを聴きながらエア指揮者をしているのと何も変わりません。ですから、実際そこで鳴り響いている音の中から一つひとつの音を聞き分け、様々な修正を行って(それは必ずしも出ている音が音符に書かれている事と違っているからではなく、習慣的な演奏ではなくて、そこにその指揮者にしかない解釈と表現がなくてはならないからなのです)指揮者の頭の中で鳴っている音楽(これも聴いて覚えたのではなくて、楽譜という設計図から構築した建物を)に近づけて行かなくてはなりません。
もしある建築家が、コルビジェやアアルトや安藤忠雄の建物を見て来て、その設計図も知らず、重量計算も構造計算もせず、基礎工事も骨組みも作らず、雰囲気だけで建物を建てたとしたら、その建物に入って行ったり、そこに住んでみようと思いますか?音楽はもしそういう作られ方をしても「直ちに健康に害はない」からといって、それが正しいアプローチではないことは誰の目にも明らかだと思います。
私は何度か来られた方には事前に「CD(のみならず他人の演奏)を聴かないで下さい」と言うのですが、どうしても聴いてしまう方が多いので残念です。これはオペラの練習をする際に歌手の方にもお願いすることです。いろいろな演奏を聴き比べたりするのは良いことですが、それは普段、課題になっていない曲などを沢山聴くことでしてください。自分が指揮する(あるいは歌う)曲のCDを直前に聴くことでその曲の強い印象ができあがってしまうと、頭の中で鳴っているCDの音が実際にその場で出ている音を上回ってしまう件があります(この件についてはフルトヴェングラーの有名な逸話かあります)。ですから、自分が指揮する曲の他人の演奏を直前に聴くことは「まったくスコアを見てこなかった」のよりも害があると言っても言い過ぎではありません。どうしても聞きたい場合は、過去にやった自分の演奏を聴いて下さい(録音がある場合には)。指揮者にとっての作業のプロセスとは99%が譜読みであると言っても言い過ぎではありません。今後も、手の動かし方よりも(それも教えますが)いかに作品にアプローチするか、と言う方法を皆さんがより学んで下さるようにお願いします。
しばらくお休みしていた方、指揮も楽器と同じ。やはり、半年、1年、あるいはそれ以上に間があいてしまうと、手が思い通り動かなくなってしまうのもわかります。ある程度の頻度で5年間くらい続けていると、テクニックも解釈も、楽譜の読み方も大きく変わってくるのですが1、2回来てわかった様な気になってしまう人も多く(実際にわかってしまう人も居るけど)その辺の個人差は、音楽の基礎がどの位できているか、楽器や声楽がどの位できるか、などによります。
先ず楽曲のアナリーゼなど譜読みを徹底的にし、次に基礎的な図形で、楽譜に書いてあることを(ある意味音楽とは無関係に機械的に)叩いてみる、それに音楽付けをしていくというのが「基礎→骨組→建物」と言うような順序ある音楽の構築方なのですが、多くの人が基礎工事も骨組みもないところにいきなり家を建てようとします。
(さいたま芸術劇場での指揮講習会から)
指揮のテクニックは極めて記号的、数値的な情報と、感情・表現が同時に伝えられなくてはならないのですが感情・表現をするための動きが記号的な情報、特にパラメーターの変化を伝える情報を妨げてはならないという原則があります。逆にパラメーターの変化のない場所ではこれらの指標を出し続ける必要はないし、変化しないパラメーターをずっと出し続けられるのは、音楽をゲシュタルトする上での妨げになります。(注:パラメーターとは「変化できる数値」なので「パラメーターの変化」という言葉は本来ダブった言い方なのですが、他の言葉を使って説明するととても面倒なのでくみ取って下さい)。
ジョージ・プレートルの指揮を見ると音楽のパラメーターを一瞬で伝えて、後はゲシュタルトに専念していることがわかります。この「間」が指揮の芸術です。
よく「指揮が毎回変わる指揮者」に対して批判がありますが、譜読みの時はテンポはゆっくりと(あるいは単に弾きやすいテンポ)パラメーターははっきりと、それがGPまでにはゲシュタルトだけになっても良いので、ある意味リハーサルが進むにつれて振り方が変わるのは当然のことだと思います。もちろん、一貫した音楽作りの中での話ですし、この事は「毎回同じように振れない」ことのいい訳にはなりません。短時間で何かを仕上げなくてはならない時、レパートリーハウスでオペラの指揮をする時などに毎回振り方が違うと場合によっては事故の元です。
「表現をしたい」と言う部分に意識が行きすぎて手の動きが何拍目なのかわからなくなってしまう人が多いですが、パラメーターの部分がわからなければオーケストラにとってはただの「エア指揮者」に過ぎません。この辺のさじ加減は「経験」と言う人も居ますが、実は「譜読みをどのくらいしたか」でもあります(どんなに経験の豊かな指揮者でも譜読みをしていない曲は音楽的には振れません)。
もう一つは、自分の描いている図形など自分が様々な角度からどう見えているかを、ビデオや鏡で見なくても認識できる「空間認識力」です。これは指揮者に限らず、バレエダンサーでも、スポーツ選手でも持っている能力だと思います。ある意味、スポーツやダンスをやった方がつくかも知れません(日本舞踊、太極拳、合気道なども共通です。特に合気道は関節や筋肉の合理的な使い方が参考になります)。
それから、非常に大切なのは実際オーケストラから出てきている音を「しっかりと聴く能力」でもあります。オーケストラは指揮者がいなくても演奏できます。しかし、それが横方向(時間軸上)でも縦方向(各楽器のだしている音量や音程)でも正しいバランスであるか、自分の求めているアゴーギクか、アーティキュレーションか、和音は純正なのか、アタックやボーイングなどのニュアンスは理想的なのか、それらを考えた時、ある指揮者が譜読みをしながら構築して来たその指揮者の脳内設計図と、実際にオーケストラが1回目の練習で出す音が完全に一致することは、どんなに短い作品であっても、またどんなに優れたオーケストラであっても、本来あり得ないのです。そこで作品がある程度「まともに」聞こえるのは、多くの場合誰にもその作品に対する先入観があり、過去の大指揮者の演奏を知っており、何となく自分で聴いたことのある演奏のようになってしまえばそれで満足してしまうからです。
しかし、それではCDを聴きながらエア指揮者をしているのと何も変わりません。ですから、実際そこで鳴り響いている音の中から一つひとつの音を聞き分け、様々な修正を行って(それは必ずしも出ている音が音符に書かれている事と違っているからではなく、習慣的な演奏ではなくて、そこにその指揮者にしかない解釈と表現がなくてはならないからなのです)指揮者の頭の中で鳴っている音楽(これも聴いて覚えたのではなくて、楽譜という設計図から構築した建物を)に近づけて行かなくてはなりません。
もしある建築家が、コルビジェやアアルトや安藤忠雄の建物を見て来て、その設計図も知らず、重量計算も構造計算もせず、基礎工事も骨組みも作らず、雰囲気だけで建物を建てたとしたら、その建物に入って行ったり、そこに住んでみようと思いますか?音楽はもしそういう作られ方をしても「直ちに健康に害はない」からといって、それが正しいアプローチではないことは誰の目にも明らかだと思います。
私は何度か来られた方には事前に「CD(のみならず他人の演奏)を聴かないで下さい」と言うのですが、どうしても聴いてしまう方が多いので残念です。これはオペラの練習をする際に歌手の方にもお願いすることです。いろいろな演奏を聴き比べたりするのは良いことですが、それは普段、課題になっていない曲などを沢山聴くことでしてください。自分が指揮する(あるいは歌う)曲のCDを直前に聴くことでその曲の強い印象ができあがってしまうと、頭の中で鳴っているCDの音が実際にその場で出ている音を上回ってしまう件があります(この件についてはフルトヴェングラーの有名な逸話かあります)。ですから、自分が指揮する曲の他人の演奏を直前に聴くことは「まったくスコアを見てこなかった」のよりも害があると言っても言い過ぎではありません。どうしても聞きたい場合は、過去にやった自分の演奏を聴いて下さい(録音がある場合には)。指揮者にとっての作業のプロセスとは99%が譜読みであると言っても言い過ぎではありません。今後も、手の動かし方よりも(それも教えますが)いかに作品にアプローチするか、と言う方法を皆さんがより学んで下さるようにお願いします。
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