2007年4月24日火曜日

感動する力

最近いろいろな人から「最近感動する事がない」と言われるが、現代人は感動する力が無くなってきているのだろうか。

「感動する力」は人類に特有の共感能力の中で、特に重要なものだと思う。「感動」とは、必ずしもポジティブな感動にとどまらない。嫌なもの、嫌悪するべきものに出会って「ぞっとする、悪寒が走る」のも感動のうちだ。

自分が直接見聞きしたものでなくて、他人の話や文章からそれをイメージして感動する事は人間にしかできない。

現代は映画のように直接的に感覚に働きかけてくるメディアが多くなったので、文章を読んで何かをイメージする事で感動する事は、ますます難しくなってきたのだろうか。

音楽家にとって感動する力は最も重要な能力だと思う。自分が演奏する作品に感動する事無しに、その演奏で他人を感動させる事はできる訳がない。

他人の演奏を聴いて感動する事はできても、作品そのものに感動する事はもっと難しいかも知れない。楽譜という文章よりも更に抽象的な記号の中にその作品を感じなくてはならないので。

もちろん、演奏家は自分の演奏のコントロールができなくなるような没入をしてはいけないと言われる。しかし、本当に作品に感動しながら演奏している時は、演奏している自分と、その演奏を別の場所で聴いている自分とがいて、演奏している方の自分は気が付くといつの間にか演奏が終わっていたようなそんな感覚を覚える事がある。もちろんその間にもう一人の自分は作品をしっかり聴いているのだが。

昨今、演奏家の中にも「作品に感動できない」という話をちらほらと聞くだけでなく、聴いていて感動できない演奏が増えたのは、演奏している方も作品に感動できていないからなのではないかと思った。

殺されたり傷つけられたりする人の痛みをイメージできない人は平気で人を殺したり傷つけたり(あるいはそうする事を命じたり)する。
美しい自然や古い町並みに感動できない人は、それを破壊する事に何のためらいもないだろう。

感動できない人達が破壊していくのは単に芸術の世界だけではない。

2007年4月13日金曜日

絶望

自分の小ささを感じる時、私は言いしれぬ安堵を覚える。

私の先生はレッスンの時、良くカントやヘーゲルの話を始めた。私の当時のドイツ語力では、とてもすべては解らなかったが。ミサ曲やレクイエムを学んだ時は、ラテン語の歌詞を解説してくれた。最後のレッスンの日、マルクーゼの書いたワーグナーの本をもらった。マルクーゼのドイツ語は私には難解だったが「きっといつか読むように」と言われた。

別の先生は、オペラの中のセリフだけで日常生活が殆どできるほどオペラのテキストに熟知していた。

消化器外科のN先生とは何時間も芸術、文化、政治の話をした。話が弾んで気が付くと二人で日本酒を2升7合呑んでしまった事があった。先生は忙しい仕事の合間を縫ってドイツ語や英語の伝記をいくつも翻訳された。

私にはまだ学ぶ事がこれほどあるのか!私にはまだ、驚きが沢山待っているんだ!と思えるのは幸せな事だ。

若い人達が自分を越えていく時はうれしい。特に自分が教えた若者が、自分のできなかった事をできるようになった時は小気味良い。

一回りも若い教え子にドイツ語の間違いを指摘されるとかえって誇らしい気持ちになる。私がヨーロッパに無理矢理行かせた何人かが現地のオーケストラに入った時もとても嬉しかった。

自分が妙に大きく感じられる時、私には居場所がない感じがする。

日本の、世界の最高学府で学んでいる若者が私の知識や技術にとても及ばない事を見せつけられると、そして彼らの中に自分の間違いに気が付かない人がいる時、私は絶望する。

T芸術大学やT学園大学は日本の音大の最高峰だ。国立でありながら年間数十万もの学費を請求するT芸術大学、その更に数倍の学費をとっているT学園大学。そんな大学に4年間、あるいはもっと長い年月通いながら、何の知識も技術も身につけないで留学してくる人がいる。それどころか、どう考えてもまったく間違った、でたらめな教えを受けて「壊されて」行く人達が何と多い事か!

更に世界の最高峰のW国立音大に学んでいる人達の中に、MM58とMM72の差もわからない人が何と多い事か!基本的なダンスの性格、基本的な和音の進行が曲の中に感じ取れない!メトリックの概念すらない!

ナポレオン戦争とモーツアルトとどちらが先かも知らない!

シンケルやダヴィッド・フリードリッヒの絵を知らないものにウェーバーが振れるだろうか?

「○○大学」という看板に、何と人は騙されやすいのだろう!
私の門を叩いた指揮者達の中にも、自分の耳で聞けず、自分の目で見られず、自分の脳で考えられない人達が沢山いた。

そういう人に限ってほんの少し教えてあげると間もなく別れが待っている。「○○大学指揮科に入学しました」「○○大学指揮研究室に入りました」「T学園大学科目履修生になりました」云々。

本物が見抜けない人、お金を捨てて看板を買いたい人は行けば良い。でも、願わくは捨てるのはお金だけにして欲しい。貴重な時間を失い、壊されて、いつの日かどこかで出会うのはやめにして欲しい。

注:大学出て英語もろくに喋れない人は、皆さん同様に卒業証書を返納するように。

2007年4月11日水曜日

悪夢

ソフィアからウィーンに戻り、パルシファルを見て床についたその夜見た夢。

何故か長い旅の末にプラハの芸術家の家の楽屋口に通される。どうやらその日に行われるオーケストラの演奏会を指揮する段取りになっているようだ。

曲は「タラス・ブーリバ」他2曲で奴隷の衣装を付けたアシスタントが、地下の通路を走り回ってはバンダの配置をしている。「タラス・ブーリバ」にバンダなんかあったっけ?それも、何故地下に?

等と思っているうちに舞台に通される。

舞台上では前の練習がまだ終わっていなく、合唱指揮者が何だか合唱団に指示を出している。やむを得ず、講習会の時のようにロジェの前の方に陣取る。

ところが、間髪を入れず「さあ、始めて下さい!」と声がかかる。

思わずロジェから振り始める私。しかも曲はプログラムに入っていない民謡調の2拍子の曲だ。

なあに、出だしが一旦始まってしまったが、聞いたところ2拍子の民謡調の曲、きっとスメタナのポルカかなんかだろう。初見でも振れる。

「そんなところから振らないで!舞台に出て!」ダメ出しが入る。無理もない。オケに失礼だ。それにしてもこんな曲をやるなんて聞いていないぞ!誰かスコアを!

素早くスコアを受け取ってよく見る暇もなく舞台に出る。とにかくオケをなだめなくちゃ!なんで、そんなに急に舞台上が入れ替わって練習が始まったのかもわからず「えー、淑女、紳士の皆さん(当然ドイツ語)」と始めるが、「挨拶なんかいいから早く練習をやれ!いつまで待たせるんだ!」と飛び交う怒号。

やれやれ、はじめからオケを怒らせてしまった。

仕方なく指揮台に乗りスコアを譜面台に載せる。

それにしても、なんて狭い指揮台なんだ!奥行きは20cm程しかない。そしてその向こうにぐらぐらした古い木の譜面台が立っている。譜面台の上の板が自分の腹にぶつかる。それにしても、今日はなんて腹が出ているんだろう!

我ながら驚きつつ、後ずさりして揺れる譜面台を押さえ、舞台の縁に乗った奥行き20cm程の指揮台の上で譜面台を安定させようとする。

その時(演奏会なのに)舞台と客席の間はピットが奈落まで降りているのがわかる。奈落で作業灯が薄暗く光る。

今まで自分が安定させようとしていた、ゆらゆらする木の譜面台にしがみつき、同時にスコアを広げる。

しかし、広げたスコアはバルトークのあの!

譜面台の揺れがひどくなる。もはや振り子のようにどうしても止める事ができなくなり、自分も譜面台にしがみついたまま揺れる。曲が進む。変拍子の場所が現れる。奈落の底が見える。脂汗が流れる。

その時「ああ、今日自分はここで死ぬのだ」という確実な意識がわき起こる。譜面台が更に傾く、自分ものけぞって譜面台につかまる。譜面台が床から浮き上がる・・・・。

2007年1月10日水曜日

ふるさと

久しぶりに日本に帰ってきて思うのは、日本人にはふるさとがないって言うこと。

私にとってもふるさとは、実はもう心の中にしかない。

「ウサギ追いしかの山、小鮒釣りしかの川」という歌があるが

私が中学生くらいの時までいろいろな小魚を捕ったりしたいくつもの小川はもう一つも残っていない。

ほんの一昔前、都心から30キロも離れていない私の生まれ故郷の、田圃に水を送っている細い川に自作のタモ網を入れると、沢山の小魚が捕れた。

一番の目当てはきらきらと玉虫色に輝くタナゴだった。タナゴ以外にも、名前は忘れたけれど沢山の種類の淡水性の小魚が、一度に数え切れないほど捕れた。

フナやメダカは歓迎されない外道だった。

ドジョウなどは持って帰ることもなかった。

けれどそのうち、タナゴはだんだん捕れなくなった。そして、汚い水を好むアメリカザリガニが沢山捕れるようになった。

夏になると、無数の貝殻をこすり合わせているような蛙の声が遠くまで聞こえてきた。夜田圃に行くと恐ろしいほどの蛙の声だった。

秋の虫の声も同じように大音量で、とても風流に感じられるような物ではなかった。

幸いカエルや虫の声は今でも聴くことが出来る。ボリュームはずっと下がったけれど。

ウグイスやカッコウの声もまだ聴くことが出来る。でもいつまでだろう?

田圃はもうほとんど残っていないから、小川もなくなってしまった。

丘と丘に挟まれた小さな窪地の一番奥には決まって湧き水があったが、丘はつぶされ、窪地はうめられ、小川は暗渠にされた。

私が子供の頃は、子供の足だと4,5分歩かないと向こうへ抜けられないような林が所々にあった。

台風が近づいた日の黄昏時に、ざわめく竹林を超えて田圃から帰ってくるのはちょっと勇気がいた。

用水路に瓶を浮かべて追っていくと、小さな橋が沢山架かっていて、それを眺めながらずっと下流の人気のない神社の境内までたどり着いてしまい、帰ってくるのが大変だった。

ある秋の日、線路を越え、国道を越え、ずっと西の方に歩いていった。子供の足だからそうたいした距離ではないところで、大きな田圃に着くと、沢山の大きなサギが田圃の中で西日に輝いて羽ばたいていた。見晴るかす、刈り取りの終わった田圃だった。

これが私のふるさとの原風景だ。

ヨーロッパで暮らしていて、一番うらやましいのが、町の景色が100年前とさほど変わりのないことだ。

沢山税金を使ってヨーロッパに視察にきたどこかの町の愚かな町長が「ヨーロッパの町は昔のままで残っている」と言っていたが、日本の政治家の多くは、ヨーロッパでは早いところでは500年も前に文化財保護法が出来て、町並みや景観が守られていることを知らない。

人間がふるさとを思うとき、自分が生まれ育った街角を、遊んだ森や小川を思い出さないことが有ろうか?

人が年老いて死んでいくとき、もし、自分が生まれ育った景色をその目に見ながら死んでいけたら、これほどの幸せが有ろうか?

それはあたかも、父母に抱かれているような安堵の念の中で旅立つことであろう。

多くのヨーロッパ人は今でも、子供の頃から見慣れた風景の中で死んでいくことが出来るし、生まれ故郷の町でなくても、多くの町は彼らの歴史とのつながりを感じさせてくれる。

だからこそ、度重なる戦災で破壊されても、ヨーロッパ人は自分たちの町を幾度となく以前のままに再建してきた。

そこで生き、そこで死ぬために。

自分が生まれ育ったふるさとに、人に押しつけられること無しに自然に愛を感じることは、自然な郷土愛であり、愛国心の基であろう。

目を閉じると瞼に浮かぶあの景色を私たちから奪ったのは誰だろう?

私のふるさとを、開発から得られる莫大な利益と引き替えに私から奪った人たちが、「ふるさとを愛し、国を愛せ」と言うとき、私はその人たちを信ずるべきだろうか?