2007年1月10日水曜日

ふるさと

久しぶりに日本に帰ってきて思うのは、日本人にはふるさとがないって言うこと。

私にとってもふるさとは、実はもう心の中にしかない。

「ウサギ追いしかの山、小鮒釣りしかの川」という歌があるが

私が中学生くらいの時までいろいろな小魚を捕ったりしたいくつもの小川はもう一つも残っていない。

ほんの一昔前、都心から30キロも離れていない私の生まれ故郷の、田圃に水を送っている細い川に自作のタモ網を入れると、沢山の小魚が捕れた。

一番の目当てはきらきらと玉虫色に輝くタナゴだった。タナゴ以外にも、名前は忘れたけれど沢山の種類の淡水性の小魚が、一度に数え切れないほど捕れた。

フナやメダカは歓迎されない外道だった。

ドジョウなどは持って帰ることもなかった。

けれどそのうち、タナゴはだんだん捕れなくなった。そして、汚い水を好むアメリカザリガニが沢山捕れるようになった。

夏になると、無数の貝殻をこすり合わせているような蛙の声が遠くまで聞こえてきた。夜田圃に行くと恐ろしいほどの蛙の声だった。

秋の虫の声も同じように大音量で、とても風流に感じられるような物ではなかった。

幸いカエルや虫の声は今でも聴くことが出来る。ボリュームはずっと下がったけれど。

ウグイスやカッコウの声もまだ聴くことが出来る。でもいつまでだろう?

田圃はもうほとんど残っていないから、小川もなくなってしまった。

丘と丘に挟まれた小さな窪地の一番奥には決まって湧き水があったが、丘はつぶされ、窪地はうめられ、小川は暗渠にされた。

私が子供の頃は、子供の足だと4,5分歩かないと向こうへ抜けられないような林が所々にあった。

台風が近づいた日の黄昏時に、ざわめく竹林を超えて田圃から帰ってくるのはちょっと勇気がいた。

用水路に瓶を浮かべて追っていくと、小さな橋が沢山架かっていて、それを眺めながらずっと下流の人気のない神社の境内までたどり着いてしまい、帰ってくるのが大変だった。

ある秋の日、線路を越え、国道を越え、ずっと西の方に歩いていった。子供の足だからそうたいした距離ではないところで、大きな田圃に着くと、沢山の大きなサギが田圃の中で西日に輝いて羽ばたいていた。見晴るかす、刈り取りの終わった田圃だった。

これが私のふるさとの原風景だ。

ヨーロッパで暮らしていて、一番うらやましいのが、町の景色が100年前とさほど変わりのないことだ。

沢山税金を使ってヨーロッパに視察にきたどこかの町の愚かな町長が「ヨーロッパの町は昔のままで残っている」と言っていたが、日本の政治家の多くは、ヨーロッパでは早いところでは500年も前に文化財保護法が出来て、町並みや景観が守られていることを知らない。

人間がふるさとを思うとき、自分が生まれ育った街角を、遊んだ森や小川を思い出さないことが有ろうか?

人が年老いて死んでいくとき、もし、自分が生まれ育った景色をその目に見ながら死んでいけたら、これほどの幸せが有ろうか?

それはあたかも、父母に抱かれているような安堵の念の中で旅立つことであろう。

多くのヨーロッパ人は今でも、子供の頃から見慣れた風景の中で死んでいくことが出来るし、生まれ故郷の町でなくても、多くの町は彼らの歴史とのつながりを感じさせてくれる。

だからこそ、度重なる戦災で破壊されても、ヨーロッパ人は自分たちの町を幾度となく以前のままに再建してきた。

そこで生き、そこで死ぬために。

自分が生まれ育ったふるさとに、人に押しつけられること無しに自然に愛を感じることは、自然な郷土愛であり、愛国心の基であろう。

目を閉じると瞼に浮かぶあの景色を私たちから奪ったのは誰だろう?

私のふるさとを、開発から得られる莫大な利益と引き替えに私から奪った人たちが、「ふるさとを愛し、国を愛せ」と言うとき、私はその人たちを信ずるべきだろうか?

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