2015年2月21日土曜日

原典版と「レコ勉」について(その1)

以前にも書いたことがあるが、今日の西洋音楽のなかの「クラシック」と呼ばれるジャンルは、ヨーロッパで科学や文化が進歩する中で、その一部として発達してきた特殊な音楽だ。

ここは学術論文ではないので、あまり細かく書くことはしないが西洋のクラシック音楽と、民族音楽やその他の音楽との大きな違いは作曲家が楽譜として書いたおおまかな設計図を、演奏者がどのくらい尊重した上で自己の解釈をそれに加えて再現される芸術だということにある。

西洋のクラシック音楽以外の音楽では、演奏は楽譜を介在させず、演奏者の奏でる(あるいは歌う)音楽を聴いてそれをコピーする(ここで耳コピという言葉が適当かどうかわからないが)主に「口述伝承」によって伝えられる芸能である。だから、演奏者は音楽そのものを自己の体験として経験しながら、それを自分の感じたように、思ったように演奏し、それが次の世代の演奏者に伝えられる。もちろん、レパートリーは自作を中心とする
演奏者や自作のみを演奏する演奏者もいるのだろうけど、音楽とその演奏が伝承されるシステム自体は演奏を聴いたものがそれを再現することによって受け継がれていくのが、西洋のクラシック音楽以外の音楽において当たり前のことだ。

しかし、西洋のクラシック音楽においては、本来作曲者が楽譜に書き起こしたことが最も優先されるべき資料として扱われる。

実際に演奏にあたって楽譜に書かれた内容がどれほど尊重されるか、そこにどれだけ演奏者の自由な解釈や装飾、即興などが入れられるかはその音楽が書かれた時代や作曲者の個性、地方などによって大いに変わっては来るが、演奏にあたって楽譜に書かれた情報がもっとも尊重され、過去の演奏家がどのような演奏を行ったか、実際に演奏を行う演奏家がどのような解釈を行うかよりも重要であることは疑いない。

「原典版」(独)Urtext (英)Original Versionと呼ばれる、様々な史料を検討して作曲家の書いた楽譜、意図した音楽にできるだけ忠実な楽譜を作ろうという試みが、20世紀の中頃から一般的になり、バッハやモーツアルト、ベートーヴェンなど代表的な作曲家についてはすでにいくつかの「原典版」が存在するようになったのも、そもそもこうした考え方によるものだ。

−続く−

0 件のコメント:

コメントを投稿