2012年7月15日日曜日

いじめ問題と死刑制度に関する考察

「人間の脳には悪人を罰することで快感を感じる部位がある」ことをご存じですか?「側座核」という部分です。

http://www.nhk.or.jp/special/onair/120129.html

人は他人が痛みを感じる姿を見ると脳の島皮質がはたらき不快になる。でも事前に「これは悪人への罰なだ」と情報を与えてから同じものを見せると側坐核がはたらき快感を感じる。つまり、理由が正当(その人にとって)であれば、躊躇なく残酷なことも出来るように人間の脳は設計されているというわけです。また「人間は閉鎖的な環境下においてはより権威のある人間の言葉には疑問を持たないで従う」という実験結果もあります(ミルグラム実験)。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%AB%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%A0%E5%AE%9F%E9%A8%93

「必殺仕掛人」の様なシリーズが人気番組になるのはこういうメカニズムがあり、他にもこうした勧善懲悪型シリーズは多いです。

「いじめ」と「死刑制度」には人間の脳の働きによる代償行為という共通点があります。犯人を死刑にしても死んだ人が生き返る訳ではありません。犯人の死が「償い」になるという考えは復讐という「呪術的代償」を求める集団的快楽行為に過ぎないのです。「私刑」などはこの典型ですし、文明社会であり得ないことです。嘗ては様々な社会でこの様な「代償的懲罰行為」が行われてきました。犠牲者は「異端者」「魔女」「人民の敵」「赤」「トロツキスト」「ユダヤ人」など様々な名称で呼ばれ大抵はなんのとがもない人です。大衆は「異端者」「魔女」「人民の敵」「赤」「トロツキスト」「ユダヤ人」が殺され、焼かれることで「正義が行われた」と感じ、精神的に強い快感と安心感を得ます。


人類の歴史上「公開処刑」は常に集団がこうした快感を感じるためのアトラクションとして行われてきました。「いじめ」も「悪人」と決めつけられた犠牲者を「罰する」ことで集団が「代償的快感」を得ようとする(つまり「自分たちは悪人を罰しているのだ」と思い込むこと)によって行われます。いじめたい側は「いじめというレジャーを楽しむ」ために「犠牲者と、いじめる理由」を探すのです。彼らにとって理由は外見であろうが、方言であろうが、何でもいい。新入生や新入部員などに対して通過儀礼として一括して行われる事もあります。


今回の加害者や学校側に対する批判の中にもいささか疑わしい物があります。先日、サカナクンが水槽の中の「メジナ」を例に挙げていましたが、この様な人間関係の中では常に被害者と加害者が逆転する危険をはらんでいます。つまり、ミクロ的にはすでに被害者が亡くなって「イジメの対象」がいなくなってしまっている集団(小さくは中学校なり、地元、大きくは社会全体)は次の対象を必要としている状況です。インターネット上ではすでに事件とは無関係の人の電話や写真まで晒され、そこに抗議の電話が殺到したりしているようです。


幼稚園でのイジメから企業での新入社員イビリまで実は日本社会はこの様な事件を起こす体質が蔓延しています。本来事件が起きてから関係者を処罰するのではなく(事件が起こった後で少数の関係者に全責任を押しつけて処罰するのは簡単でしょうがそれではこの様な事件はいつになってもなくなりません)この様な事件を起こす様な社会の体質が批判されなくてはならないと思います。