Tagebuch aus dem ewigen Abendland 美しき斜陽の都、ウィーンから。芸術、文化、経済について。 日本での家造りについて。長男は6歳からウィーンで小学校に通う。 関係者に配慮して、記事は必ずしも同一年度の出来事ではありません。過去の日記もお読みいただければと思います。
2006年12月15日金曜日
2006年12月13日水曜日
著作権70年伸長について
「著作権保護期間の延長問題を考える国民会議」というのに行ってきた。
日本では現在著作者の没後50年間著作権が保護されているが、これを70年に延長しようと言う動きが出てきている。これをどう考えるかというのだ。
バッハもモーツアルトもベートーヴェンも、その遺族達も一度出版社に楽譜を売ってしまったら、その後受け取る事の無かった著作権料。
ポップスなど作られたその時に多額の宣伝費を使って流行させられる音楽の場合には、アーチストが演奏した作品は様々な媒体に載せられて売られる時、媒体を作ったり売ったりしたには利益が入る。
クラシックの場合、作られたばかりの作品を演奏してもまず利益にはならない。ストラヴィンスキーやヒンデミットを演奏する事すら演奏家にとってモーツアルトやブラームスを演奏するよりずっと勇気のいる、リスクの高いことだ。
聴衆のほとんどはストラヴィンスキーやヒンデミットよりもモーツアルトやブラームスを聴きたいと思っているので、ストラヴィンスキーやヒンデミットだけを演奏してもまず客は入らない。モーツアルトやブラームスを演奏する前にちょっとスパイスとして、あるいはプログラムに変化を持たせるため、あるいは聴衆の多くに「こんな作曲家のこんな作品もあるんですよ」というふうに、リスニングのレパートリーを広げてあげる事につながれば、という意図で、こうした作品は取りあげられる事が多い。
演奏家にとっては、前プロで取りあげた近現代の作品が、練習の時に後半の曲よりずっと手間のかかることになることもある。だったら敢えてやらなくても良いんだけど、音楽家である以上近現代の作品も取りあげようと思うのは芸術家としての良心であり、当然の欲求である(20世紀の作品なんか一切やらない人も沢山いる)。
ところが、JASRACやブージーアンドホークスは、こういう作品を演奏するなら高い著作権料を払い、一般に流通している楽譜じゃなくて高い貸し譜を使いなさいと言ってくる。
「兵士の物語」や「室内音楽」はずっとやってみたい作品だが(兵士の物語は何度かやったが)高額な著作権料や貸し譜料を払って自主公演でやっても元が取れない。必ず赤字になる。
こういう小さいアンサンブルの本番なんて著作権料や貸し譜料の分(十数万)くらいお金が残ればいい方だ。
かくして、近現代の優れた作品はなかなか演奏できない。ましてや、若い芸術家が集まって近現代の優れた作品に取り組むなどと言う事はますますできなくなっている。
日本よりも早く著作権の保護期間を延長したヨーロッパで、クラシックの著しい衰退が始まっている。モーツアルトやベートーヴェンの時代には音楽会のプログラムは作曲されたばかりの新作がほとんどだったが、今日の音楽会のプログラムはロマン派ぐらいまでのものばかりだ。現代音楽の場合は演奏すると(オーストリアでは政府から、あるいは他の国だと現代音楽関係の財団から)補助金の出る、作者存命の初演物ばかりだ。一度演奏されたら二度と日の目を見ない曲ばかりなのは言うまでもないが。
バッハもモーツアルトもその遺族も受け取れなかったお金を、マルティヌーやヒンデミットやストラヴィンスキーの遺族に、それも本人に会った事もない曾孫の世代まで払い続け、その結果作品自体が演奏される機会が減ってしまう。そんな状況が、より望ましいのだろうか?
日本では現在著作者の没後50年間著作権が保護されているが、これを70年に延長しようと言う動きが出てきている。これをどう考えるかというのだ。
バッハもモーツアルトもベートーヴェンも、その遺族達も一度出版社に楽譜を売ってしまったら、その後受け取る事の無かった著作権料。
ポップスなど作られたその時に多額の宣伝費を使って流行させられる音楽の場合には、アーチストが演奏した作品は様々な媒体に載せられて売られる時、媒体を作ったり売ったりしたには利益が入る。
クラシックの場合、作られたばかりの作品を演奏してもまず利益にはならない。ストラヴィンスキーやヒンデミットを演奏する事すら演奏家にとってモーツアルトやブラームスを演奏するよりずっと勇気のいる、リスクの高いことだ。
聴衆のほとんどはストラヴィンスキーやヒンデミットよりもモーツアルトやブラームスを聴きたいと思っているので、ストラヴィンスキーやヒンデミットだけを演奏してもまず客は入らない。モーツアルトやブラームスを演奏する前にちょっとスパイスとして、あるいはプログラムに変化を持たせるため、あるいは聴衆の多くに「こんな作曲家のこんな作品もあるんですよ」というふうに、リスニングのレパートリーを広げてあげる事につながれば、という意図で、こうした作品は取りあげられる事が多い。
演奏家にとっては、前プロで取りあげた近現代の作品が、練習の時に後半の曲よりずっと手間のかかることになることもある。だったら敢えてやらなくても良いんだけど、音楽家である以上近現代の作品も取りあげようと思うのは芸術家としての良心であり、当然の欲求である(20世紀の作品なんか一切やらない人も沢山いる)。
ところが、JASRACやブージーアンドホークスは、こういう作品を演奏するなら高い著作権料を払い、一般に流通している楽譜じゃなくて高い貸し譜を使いなさいと言ってくる。
「兵士の物語」や「室内音楽」はずっとやってみたい作品だが(兵士の物語は何度かやったが)高額な著作権料や貸し譜料を払って自主公演でやっても元が取れない。必ず赤字になる。
こういう小さいアンサンブルの本番なんて著作権料や貸し譜料の分(十数万)くらいお金が残ればいい方だ。
かくして、近現代の優れた作品はなかなか演奏できない。ましてや、若い芸術家が集まって近現代の優れた作品に取り組むなどと言う事はますますできなくなっている。
日本よりも早く著作権の保護期間を延長したヨーロッパで、クラシックの著しい衰退が始まっている。モーツアルトやベートーヴェンの時代には音楽会のプログラムは作曲されたばかりの新作がほとんどだったが、今日の音楽会のプログラムはロマン派ぐらいまでのものばかりだ。現代音楽の場合は演奏すると(オーストリアでは政府から、あるいは他の国だと現代音楽関係の財団から)補助金の出る、作者存命の初演物ばかりだ。一度演奏されたら二度と日の目を見ない曲ばかりなのは言うまでもないが。
バッハもモーツアルトもその遺族も受け取れなかったお金を、マルティヌーやヒンデミットやストラヴィンスキーの遺族に、それも本人に会った事もない曾孫の世代まで払い続け、その結果作品自体が演奏される機会が減ってしまう。そんな状況が、より望ましいのだろうか?
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