2006年9月5日火曜日

プラハでのこと

その後、またプラハに行った。今年の夏は2週間チェコにいたのだが、主にいたのはオロモウツで、プラハは前回は宿泊せずに夕方オロモウツに戻り、9月2日に知人の運転する車で、オロモウツからテルチ、インドゥルジフヴ・フラデツを経由してプラハに入った。

私のコンサートを聴きにわざわざ日本から来て下さった日大の教授と奥さんを、演奏会のあとプラハに案内することが目的が、彼は20年ほど前に一度プラハに来た時にホテルやタクシーにさんざんぼったくられたらしく、チェコのイメージが極めて悪く、よく「チェコは国中がゆすりたかりだ!」などと公言するので、私もいちいちチェコの弁護をするのに大変である。

お年寄りの夫婦で、体も丈夫ではないし、オロモウツからの列車が到着するホレショヴィツェの駅から、共和国広場の近くのホテルまではタクシーか地下鉄を使うしかない。ホレショヴィツェの駅にいるタクシーはまずぼったくりだし、地下鉄も最近ホレショヴィツェが終点ではなくなってしまったので、混んでいるとスリがいないとは限らない。また、何かあってこれ以上イメージが悪くなっては、私もたまらないと、友人に頼んで車を出してもらったのだ。

プラハ市内にはいるとさすがに一方通行ばかりで、私も地図を見ながら道案内だったが、ヴァーツラフ広場を横切ろうとしたところで、警官に停止を命じられた。

「進入禁止の道路に進入したので罰金を払え、但し今すぐ払えば2000コルンのところ初犯なので1000コルンで良い」との事だった。しかし、その間にも後ろから何台もの車が入ってきて、そのうち外国ナンバーの車ばかりが止められていた。ナイトクラブの広告を車体全体に書いた映画に出てくるような巨大なリムジンが堂々と追い越していく。

1000コルンと言えばチェコ人の週給に近い金額だし、「罰金をまけてやる」などと言うのは胡散臭いが、警官と口論しても無駄なのでやむを得ず1000コルンを払ってその場を去る。

教授は「それ見た事か、あれはわざとやっているに違いない」とまた始まってしまい、運転していた友人と君と二人が見ていて標識を見落とすなんておかしい、と言うので、私たちのミスを確認するため再び現場に赴く。

すると、進入禁止の標識が、進行方向から見えないように45度ほど曲がって付いている事が分かった。これではさすがにわざとやっているとしか思えない。しかも止められていたのは外国ナンバーの車ばかりだ。

地下鉄のスリは野放しなのに、ヴァーツラフ広場には100メートルおきに警官が出て、外国ナンバーの車ばかりを止めていた。

私も今度ばかりは考えを改めるに至った。怒りにはらわたが煮えくり返った。

見えないように付いている標識を見落として、進入禁止の道に入ってくる外国ナンバーの車。運転者は道を知らないし、これはあくまで過失行為である。

それに対して地下鉄のスリ、タクシーのぼったくり、標識が曲がっているのに高額な罰金を取り立てる警官、これらは悪い事をしていると確信していながら、外国人から金を巻き上げるのに何のためらいも感じない人達だ。

かつてヒットラーは小国チェコの政府を脅して、「ドイツ系市民の保護のため」という口実のもと、6年間にわたりチェコを占領する。しかし、戦争が終わると同時にチェコ政府は、カール4世の時代から400年間にわたってチェコに住み続けてきた「ドイツ語を話すチェコ市民達」を彼らの故郷から放逐した。「今すぐに、荷物1つだけを持ってここから出ていけ!」と。

スメタナがドイツ語しか話せなかったのは有名な話だ。時代が時代ならスメタナやシュールホフもドイツに追放されていただろう(実際にはズテーテン地方のドイツ語を話すチェコ市民達はオーストリアに起源のある人が多かった)。

チェコ政府の態度は皮肉にも「ドイツ系市民の保護」が必要な事実だった事を証明してしまった。

チェコ語でドイツ人を表すネメーツとは古いスラブ語で「盲」のこと、オーストリア人を表すラコウスコとは「どもり」のことである。外国人を軽蔑し、金を巻き上げる事を恥じないチェコ人を本当に情け無いと思った。

チェコではこのような事態はもう既成事実である。チェコ人ならプラハで何が起こっているか誰でも知っている。

かつて、ドイツ人の半分がならずもののナチ党を支持した時、多くのドイツ人はナチを支持しなかったものの、それと戦おうともしなかった。

ドイツの斜陽の始まりだった。